2023年度
津軽藩の始祖大浦光信公が辿った古道探索ツアー再会のご案内

2022年の8月の線状降水帯の影響で、古道の一部が決壊・恩愛沢にかけていた仮設の橋も流されるなど鰺ケ沢町は大変な水害の被害を受けました。
ですが今年の春、ようやく補修を行うことができましたので、7月に古道探索ツアーを2回実施する運びとなりました。
参加希望者は下記の開催3日前までに電話・FAX・mailでの申し込みを受け付けます。

開催日 ①7月2日(日) ②7月16日(日)

集合時間 全日午前9時

集合場所 光信公の館駐車場
     (〒038-2725 青森県西津軽郡鰺ヶ沢町種里町大柳90)

参加費  5,000円(ガイド費用・保険料・お弁当(種里城弁当)含む)

所用時間 約1時間40分程度

登山や山歩きする格好でご参加ください。
水筒・帽子・登山靴・軍手・行動食をご持参ください。

申し込みについては下記の形でお願いします。
①メール
宛先:school@shirakami.gr.jp
②FAX:0173-82-0015
③電話:0173-82-7057
保険等の手続きの関係で、名前・住所・連絡先・年齢が必要となります。
ご協力をよろしくお願いいたします。

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★大浦光信古道

岩木川を渡る旧岩木町、津軽中学校跡地は、吉田地区、大浦地区とも呼ばれ、アイヌ語でオオウラとは(広い入り江)という意味でもあり、岩木山、岩木川とは、アイヌ語で、神様の住むところと言われていた。
また、心を治める者は、津軽を治めるとまでも言われていた。
後長根川 → 岩木川を下って → 十三湊は北前船で、京都までも物資の交易があった。4つの郭(くるわ)でできていて、東西で83m、南北で63mとも言われる大きな城で、城下町は、現在の弘前市の城下町とほぼ同じ規模と言われている。
この大浦城は、津軽の国づくりの足場ともなった城とも言われている。

1491年南部左京の介光信 → 1502年10年かけて種里城に入った。時は戦国時代,織田信長と今川義元との桶狭間の合戦の69年前であり、ちょうど下剋上の時代で、下位の者が上位の者を政治的・軍事的に打倒して身分秩序(上下関係)を侵す行為をさし、戦に勝った者が、正しいという時代である。

特に、目だったのが安東一族(藤原一派)と南部(三戸南部)が、津軽の米が喉から手の出るほどほしかった時期。
当時は田子城の南部氏が石川城を攻めたり、安東は、秋田とか蝦夷に逃げたりと戦国時代。
20代信時は安東の甥の蔵館、深浦の折曽の関などを責めた。

1521年光信が67歳、死期を迎えた時遺言で、自分が死んだら、甲冑を着たまま、刀を入れて、南東向きに葬ってくれと子、守信に遺言を残し、敵側の方向に自分の墓の向きを指示した。
戒名の中から、長勝寺の名を取り、1567年物は建物、心は寺ということで、大浦城を城下町にし、城下町に寺を建てた。
1571年為信は、石川城、和徳城を三戸南部から2000の兵をなして来たのを倒し、1590年豊臣秀吉から、津軽氏として名をもらい、津軽為信として、1594年堀越城に移り、1607年京都で亡くなった。
現在の津軽藩の礎となった。大浦光信は、久慈市から、今の鯵ケ沢町の種里に居城をかまえ、西浜海岸(深浦町と鯵ケ沢町の海沿い)の安東勢力にも気を配り、淡々と津軽の南部攻略を練り、この恩愛沢の古道を通り、何度も旧岩木町の吉田・鼻和地区に通い、大浦城拠点の居城を通しての津軽一円のコメどころの統一を狙っていた。

当時の南部は今でも、やませ地帯で米は取れず、この津軽地区の米を農民に租税として搾取し、重い過料を課していたので、その南部氏から、津軽藩として取戻し、弘前市に今日の米とりんごの産地とした津軽為信の功績は、大きい物がある。
また、今回は、その礎を築いた、大浦光信が辿った古道を探索することで、津軽の歴史を観ずる事はとても意義深く。
この古道は光信公の館 → 小森地区 → 恩愛沢 → 黒森地区 → 殿の井戸までのコースとなる。その後は旧百沢街道(岩木山神社の前)を通り、旧岩木町の津軽中学校(大浦城跡地)まで続いている。
今回は、このコースであるが、来年度以降は、種里城から、西浜海岸に抜けた古道を辿るツアーも企画している。お楽しみに・・・・・・

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