菅江真澄が歩いた白神山地

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江戸時代、青森県内を来遊した、三河の国出身の菅江真澄(本名 白井英二)は、天明3年(1783)に故郷を旅たち、天明5年8月、西海岸大間越から津軽に入りました。
 その後、現在の岩手・宮城県、北海道を旅した後、寛政4年(1792)に下北に入って2年半、寛政7年に再び津軽に入って6年半、合わせて9年の月日を青森県内で過ごしています。
真澄による青森県に関する著作は11冊にも及び、当時の人々の暮らしや自然、産業や歴史に至るまで、彩色された図絵とともに、詳細に記録を残してくれています。中でも『外浜奇勝』は、青森県内に残る唯一の真筆本として貴重です。

当時本草学の知識を習得していた、真澄(当時は白井秀雄と呼んでいた)と共に、本草の知識と技能に乏しかった藩医の小山内玄貞や山崎清朴藩医と共に、野山に入り薬草御用手伝いとして雇われた事が、御国日記にも記録されております。そして、弘前城の近くに薬草園を開園して移植して育て、大規模な採集のサンプルの為の押し葉づくりを行っています。250年前の白神山地は豊かな植生があり、この一ツ森・鬼袋・種里・赤石地区を歩いて、白神山地に入山しています。

赤石周辺での旅路

寛政十年(1798年)

五月二十七日
岩木山の麓からかねくら山を眺め、湯の沢という山川のたぎり流れる水をわたって、わけのぼると硫黄堆というところにでた。ここはかの出羽にある鳥海山のように、ところどころ湯けむりが盛んにたち、あるところは火がもえ、泥の波が湯のたぎるようにぶつぶつとわきある泉があった。
 和銅六年(713年)のむかし、みちのおくの硫黄を奉ったのも、この山などで産したものではないかと語り合いながら、馬の背山(赤石川の源流)、中村川のみなもとの山、中野沢山、、大然山、近くには、いわのめ、九十九森などが眺望される。手斧山の麓の沢水を渡って行くと、山で採るいわまめ(イワナシ)、いわいちご(ノウゴイチゴ)があり世にまれなものと思われる。

五月二十八日
嶽の湯の集落をたって、湯谷(湯段)のいで湯の部落にいき、枯木平の牧、冷水の沢、杉平とたどり、右には一ツ森、黒森、おこしの沢、左に黒森、手代山をみながら、松平村(松代・鯵ヶ沢町)についた。やがて土倉坂をのぼり、白沢、またの名をあしやち(芦萢)というところの一本杉という部落にきて、宿についた。

五月三十日
中村川の水上をわたり、滝の沢の集落を左にみて、古館という集落のあるところから七曲りとよぶつづら折の道を過ぎた。岩木山の裾野にある笹平という山を左手にみたところで、生い茂る黄連茶(リョウブ)を「これは何か」と問うと、案内人があかしばと答え、柳葉菜(アカバナ)の名をとうと、やなぎはなと答えた。

(中略)

六月七日
 浜横沢をでると、長間瀬、横山、派立、小野畑が迎えた。鍵かけ坂をひとつ越えてきて、黒森をさして湯にかよう路をよこぎって長坂をのぼると、館前というふるい城柵のあとのあたりでかろうじて川をわたり、目内崎、漆原の集落も過ぎて、種里の村長の家で中宿りした。行く道の左方、右方の田はことごとく川波がうちよせて荒れている。
鬼袋という村があった。このあたりの田は川ぞいにつくってあるので、ときたま流水は岸をこえ、田も畑も淵瀬となり、農作が被害を受けるので、里の人々は嘆きながら道をつくっていた。
 椰波須山を眺め、一ツ森村も過ぎて、大然村についた。この村のうしろに桐山があって、大きな白鉄樹(アオギリ)が茂っていた。前は然が岳からうちつづく大岳のような岩壁で、人が登ることもできない。この陸奥のたくさんある神社のうちは、志加利和気(しかりわけ)の神を奉っているところがある。
しかりわけはもと鹿猟分(ししかりわけ)という言葉であって、この然りも、その鹿猟(ししかり)という言葉とおなじ意味であろう。
志加利和気神社は、南部盛岡に近いあたりに鎮座していた。

 【種里の大浦為信公の館跡があり、南部から津軽に来た経緯と結びつくものがあるかもしれない】
 川辺を見めぐり、村を出はずれると、それ以上進むさきもなく、ほのぐらい山里である。
 【この先のくろくまの滝までは、行っていない】